ラース・フォン・トリアー監督“ドッグヴィル”
押しも押されぬ大女優ニコール・キッドマン主演の“ドッグヴィル”を観た。
彼女のヌードが見られそうないくつかの映画と迷った末、全編着衣のこれを選んだ。どうせ映画は実用には適さない。ならば一番面白そうな作品を選ぶべきと判断した。そして、それは正しかった。それに、毛皮のコートに身を包んでいる彼女も、みすぼらしい恰好を余儀なくされる彼女も、十分に魅力的でエロティックだった。
ラース・フォン・トリアーという人は、ちょっと込み入った話を巧く飽きさせずに見せる監督だと思う。“ダンサー・イン・ザ・ダーク”も好き嫌いはあれ、最後まで目の離せない作品だった。決してラストの衝撃だけが売りの映画ではない。
それにしても“ドッグヴィル”の周到さには脱帽する。
原寸大の間取り図のようにチョークで床に描かれた村。家の戸も壁も道路も植込みも庭に繋がれた犬さえもチョークで書かれた線でしかない。全てはそのちょっとした舞台ほどの空間で演じられる。演者はパントマイムのように戸を叩き開け閉てする。
その死角のないセットが独特の緊張感を生む。
例えばそこでは家の内と外で起こっていることが同時に見える。女が陵辱されているすぐ外を、彼女に好意を寄せる男が何も知らずに歩いている。隣人も気付く気配はない。そんな状況がたったのワンショットで説明されてしまう。別々に撮った陵辱シーンと歩く男のシーンと隣家のシーンをカットバックで見せられるのとは根本的に異質だ。この手法を思い付き、実行し、あまつさえ成功させているのは凄い。
物語の方もその奇抜な手法に負けてはいない。
主人公グレースが身をもって知る人間の弱さは、思わず目を覆いたくなる醜さだ。それは彼女の持つ聡明さを根こそぎ奪い取っていくかに見える。けれども、観客は唾棄すべき弱さを憎むと同時に、彼女に対する違和感を持ち続けることになる。どう見ても彼女は自分を損なってなどいないらしいからだ。
彼女は何故彼らを受容し赦そうとするのか。
ニコール・キッドマンはこの複雑なキャラクターをみごとに体現して見せている。それはフェアな演技と言い換えてもいいかもしれない。彼女の力量が最終章を効果的見せ、観客を納得させるのに一役買っていることは疑う余地もない。主人公の魅力の源泉が映画の主題らしきものと重なるラストはまさに圧巻だ。
これほど独創的で周到で隙のない映画をぼくは知らない。
必見だ。
posted in 05.03.16 Wed
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