宮崎駿監督アニメ“崖の上のポニョ”

宮崎駿監督のアニメ“崖の上のポニョ”を観た。

別に難しい映画ではない。というか、難しく考える必要はないように思える。何も無理して寓話を読み取らなくていい。宮崎駿という2008年夏現在67歳のおじいちゃんの、いまだ尽きせぬ豊かなイマジネーションの世界に浸り、無意識に「ポ~ニョポ~ニョポニョさかなの子♪」と口ずさんで赤面していればいいのである。これはアニメーションの質が必ずしもディテールの描き込みに依存しないことを実感できる優れて高度な作品だし、奈良美智か水木しげるかというような人面魚や半魚人の描写も画一的な萌えアニメにはない魅力がある。はっきりいってメチャクチャ楽しかった。

過去の宮崎作品にイニシエーションの物語や、現代的ライフスタイルへの警鐘や、人間の傲慢や、人間賛歌や、ビルドゥングスロマンを見てきた「大きなお友だちのみんな」は多かったと思う。今回のポニョにそうしたメッセージを見付けることは難しい。たとえば、ポニョを見付ける5歳の宋介は人として始めからできあがっている。彼は全篇を通して成長したりしない。未来少年コナンのようなボーイ・ミーツ・ガールの要素もない。また、千と千尋のように異界への往来を経て何かを失ったり得たりするタイプの話にもなっていない。ポニョの世界には此岸と彼岸の境界がない。

寓話的でないという根拠はいくつもある。たとえば、予告でも使用されていた大津波。あの大災害すら特に試練として機能するわけでも、自然の驚異として機能するわけでも、絶対的な外部の力として機能するわけでもない。ただただスペクタクルなイベントととして消費される。母親探しと自立のモチーフがあるようでいてそうでもない。ポニョの手を引いてトンネルに入っていく場面にイニシエーションを見るのが間違いだとはいわないけれど、個人的にはあの前後で宋介やポニョの内面が変わったようには思えなかった。すべてはただ彼らの冒険譚を支える挿話として出現する。

決定的なのは、日常に割り込んでくる魔法や不思議が、ぼくたちが感じている「現実」に一切回収されない点だろう。そもそもあの荒唐無稽な状況を「日常ではない」と感じているらしいのは宋介の母リサとデイケアサービスセンターのトキさんくらいで、それ以外の人たちはそもそも不思議が起こっているという認識すら希薄だ。そして、リサもトキさんも結局は魔法が当たり前に機能する世界にさしたる抵抗もなく軟着陸する。公式サイトには「神経症と不安の時代に立ち向かおう」なんて大上段なメッセージが書かれている。が、少なくともぼくにはただ楽しいアニメだった。

それは観て楽しんで感じることで、理屈で読み取ることではないのかもしれない。

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管理人イメージなりゆきでlylycoなんて名乗るも性別は男。自室にテレビがない。自然、本とインターネットが主な情報源となる。速読技術がないため遅読。実用書より小説を好む傾向あり。食も知も雑食を旨とするも思うに任せず。京都在住、大阪勤務のデザイン系会社員。

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