北村拓司監督“ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ”

市原隼人主演“ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ”を観た。

これが予想外に好かった。半ば地雷を覚悟で観に行った作品である。にもかかわらず、本気で面白いものだから参った。とにかく、オープニングから笑えること必至。本気を笑いで見せられる懐の深さにまずやられる。今やCGは当たり前すぎて、使わないことがウリになってしまうような時代だけれど、こうした使われ方なら激しく推奨したい。とにかく恰好よくキメるべきシーンが恰好よくキマっている。ヒロイン役の関めぐみの、一本筋の通ったルックスとも相俟って、アクションシーンのキレが半端じゃない。正直、惚れた。

実をいうと、大筋でいうならこれは単なる思春期の恋愛譚である。あらすじを400字でまとめたりしたらもう最悪で、これほど陳腐な話はない。何しろ、事故で天涯孤独の身になった美少女と、冴えない寮生活を送るイマドキのゆるい男子高生が、お互いの心の隙間を埋め合う内に惹かれ合い、メンタルな試練を乗り越えてめでたく結ばれるのである。これほどありふれた話があろうか。けれども、物語というのはそもそもそれほどバリエーションのあるものではない。大切なのはそれをどう表現するか、である。

雪の結晶と共に空からやってくるチェーンソー男と夜毎超人的なバトルを繰り広げる女子高生、絵理。バイク事故で死んだ友人を悼みながらもどこかで羨み、人生に最高のエンディングを求めるイマドキの男子高生、陽介。高級和牛を万引きして逃げた夜、バトルの現場に偶然居合わせた陽介は、その日から彼女の死を賭した闘いを応援することを決める。女の子を守って華々しく死ぬ、それは最高のエンディングじゃないか、と。とにもかくにも、青春ストーリーをこんな風に設定したことのオリジナリティをまず評価すべきだと思う。

チェーンソー男のモデルはおそらく“悪魔のいけにえ”のレザーフェイスだろう。美少女を死へ傾斜させる心の闇を、メンタルな領域から引きずり出してレザーフェイスにしてしまったわけである。妄想を当たり前に具現化する表現がえらく今っぽい。古い手法でこれを表現するなら、バトルの痕跡が朝になると消えていたりするはずである。つまり、他人から見れば明らかに現実に起こったことじゃないという状況を描写する。そうしないところがこの作品のミソである。ふたりの妄想からは他人の視点が一切排除されている。

家族を失った悲しみに打ちひしがれる絵理は、打倒すべき悲しみの元凶としてチェーンソー男を必要とした。一方で、これといって何もないユルい人生からの訣別を希求する陽介にとって、そんな危機的状況にいる美少女というのはまさに渡りに船だったろう。そして、妄想は共有される。一種の依存状態である。チェーンソー男が人間の心の中にある弱さや内に向かうネガティブな情動の具現化であることは特に解釈の必要もないだろう。それは「悲しみが大きくなるほどあいつは強くなる」という絵理の台詞からも明らかだ。

この作品の唯一の欠点は、この判りやすさかもしれない。もう少し観客に解釈を委ねるような話にしておけば「よくある話だ」というような批判的な感想は防げたんじゃないかと思う。それでも、ぼくはこの作品はこれで良かったんだとも思っている。この荒唐無稽な設定や無闇に恰好良いアクション、そして随所にちりばめられた絶妙な笑いは、気恥ずかしいような青春物語をストレートに表現するための方便なんじゃないかと思うからだ。過剰に作り込まれた画も実は熱苦しいメッセージを厭味なく見せるのに一役買っている。

見ている途中、ぼくは絵理も陽介の妄想か、あるいは家族と一緒に事故で死んでいたというようなオチを予想していた。原作者の滝本竜彦に対する「オタク系」な先入観も悲観的なエンディングを予想させる要因だったろう。そして、それは見事に裏切られた。気持ちの好い裏切られ方だった。もし、予想通りの展開だったとしたら、たぶんこれほど素直に面白いとはいえなかったと思う。主役ふたりもさることながら、同級生役の浅利陽介や三浦春馬、教師役の板尾創路ら脇役陣が好かった。陳腐な話だと斬って捨てるのはもったいない。

お陰でこれまで気になりつつも未読だった原作を読む気になった。

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