ジョディ・フォスター主演“白い家の少女”
「少女」というのはひとつの魅力的なモチーフだと思う。こんなことを書くとロリコンだなんだと蔑まれそうだけれど、その程度の罵詈は甘んじて受けよう。何しろ、この映画の魅力はどう考えても当時13歳だか14歳だったジョディ・フォスターのファンタジックな少女性にあるからだ。ファンタジックといっても、それは何も映画自体を形容しているわけではない。サイコ・サスペンスなんて分類になることもあるくらいだから、これはサスペンス映画の一種と考えるのがたぶん正しい。けれども、これは断じてハラハラドキドキを楽しむ映画ではない。
“白い家の少女”の公開は1976年、少女娼婦役で話題になったあの“タクシードライバー”
と同年である。“ダウンタウン物語”
もこの年だから、まさに引く手数多といった印象だ。今尚名作の誉れ高い“タクシードライバー”
に比べ、“白い家の少女”
はあまりにあっさりと忘れ去られた感がある。長らくDVD化さえされなかった。それでも、この映画を「好む」人たちは決して少なくないと思う。それは映画としての出来不出来とはもしかすると関係ない話なのかもしれない。ただ、忘れ難い。せいぜい1時間半程度の映画の、様々なシーンがいちいち印象に残る。
ブロンドの少女、暖炉の火、ロッキングチェア、ティーセット、詩集、ショパン、そして、毒薬。少女リンはその少女性故に自らのユートピアを作り出そうと絶望的な戦いを挑む。それは哀しいかな、死んだ父親に支配された少女の気高くも脆弱な精神が生んだ幻想でしかない。白い家は彼女のユートピアの象徴であり、そこを訪れる大人たちは幻想を砕かんとする異物である。早熟で聡明な少女は、同時に脆く儚い。その脆さは唯一許容される現実との接点、少年マリオとの関係において露になる。リンはついに亡き父による支配を、その耐え難い寂しさを吐露する。
そしてラスト、リンは再び絶望を余儀なくされる。絶望的な戦いから逃れたいと願う彼女の想いは、縋るべき相手の不在と排除すべき敵の接近によって決定的に打ち砕かれる。そのブルーの瞳を覆うのは、哀しいまでの諦観である。彼女がそのとき殺したのは、たぶんユートピアからの開放の可能性だった。マリオを得て彼女は少女幻想から逃れられるはずだった。けれども、運命は再び彼女を呪縛する。ただじっと映し出され続けるリンの横顔が痛々しい。その瞳に映るのは、たぶん、目の前で死にゆく男の姿なんかじゃない。再び凍りついた自らの心だ。
ジョディ・フォスターの存在が生んだ少女映画の佳作。もっと観られていい作品だと思う。
posted in 08.04.30 Wed
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