トッド・ヘインズ監督“アイム・ノット・ゼア”

映画“アイム・ノット・ゼア”はついにボブ・ディランをフィクションにしてしまった。

こんないい方は誤解を招くかもしれない。けれども、そうとしかいえない。おそらく、ボブ・ディランというあまりに不定形なイコンは、フィクションでしか描き得なかったのだろう。だから、この映画はフィクション故に、ディランという複雑な多面体を、複雑な多面体のまま捕らえることに成功している。でなければ、リチャード・ギア演じるビリーのようなキャラクターはあり得なかったろう。ビリーはディランのある一面を担ってはいるけれど、伝記的な意味でのディランの一時代を背負ってはいない。フィクションでなければ伝えられないものが確かにここにある。

フィクションとして6人の俳優がディランを演じる。ディランというキャラクターを演じるのではない。演じられるのは、ウディであり、ランボーであり、ジャックであり、ジョン牧師であり、ロビーであり、ジュードである。誰ひとりディランを演じてはいない。ただ、どうしようもなく総体としてディランであるという、これは奇跡的にコンセプチュアルな映画なのである。これほど精緻で、これほど大胆な目論みを孕んだ作品になんて、そうそうお目にかかれるものじゃない。インディペンデント映画界の鬼才。トッド・ヘインズに冠される異名は伊達ではない。

もちろん、監督の手腕だけではない。黒人少年ウディ役のマーカス・カール・フランクリンは、意外なキャスティングにも関わらず冒頭から一気に観客を惹きつける。或いは、最もヒロイックで、最も華やかな時代のディランを仮託されたジュード役、ケイト・ブランシェットの演技に感嘆のため息を吐かない観客はいないだろう。生身のメロドラマを見せるヒース・レジャー、転向の時を演じ分けるクリスチャン・ベイル、饒舌な象徴派詩人をモノローグだけで演じるベン・ウィショー…。これら限られたディラン像を体現してみせる俳優たちが、ひとりの例外もなく好い。

ウディ・ガスリーはディランが「私の最後の英雄」と呼んだ実在のフォークシンガーで最期の年には実際に会いに行ったんだとか、ディランは表現技巧上ランボーをはじめとする象徴派詩人の影響を受けているんだとか、そういうディランに纏わる知識は確かにこの映画の細部をより楽しむためには有用だろう。けれども、ボブ・ディランという類稀なる個性を感じる、そのエキサイティングな経験の前には、ほんのトリビアルな問題に過ぎない。ボブ・ディランを知らなくても、映画が、そして音楽が好きなら、きっと存分に楽しめる。それだけの魅力に溢れている。

そして、観終わったらきっとボブ・ディランを聴きたくなる。


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