ジブリ『風立ちぬ』を観て甘美な罪悪感に身悶える

『風立ちぬ』を観終えてから、感想がなかなか言葉にならなかった。

感動のあまり、というのではない。いや、感動はした。が、言葉にならないもやもやとした違和感がいつまでも消えなかった。映画館で涙を流しながら、自分はなぜ泣いているのか、と自問してしまう。そんな映画だった。

美しい映画だった、とは思う。美しいものへの欲望が、ただただまっすぐに表現されていた。醜いものへの視点をまったく欠いていたわけではない。その存在は認めながら、意識的に美しさだけを切り離し、それを欲望することを全面的に肯定してみせる。ただ一片の躊躇も衒いもなく、だ。もちろん、本当に美しいもののみ追求できるような才能は、誰にでも与えられるものではない。主人公の二郎はもちろん選ばれた人間である。美を求める彼の心に、葛藤や逡巡はほとんどみられない。

それは、宮崎駿の才能やこの作品に対する態度とも重なって見えた。

ゼロの美しさも、菜穂子との短い日々の美しさも、すべては不格好な現実の上澄みでしかない。その上澄みだけを全力で求め、愛する。まさに、才能ある者にだけ許された「ユートピアの創造」とでもいうべき仕事である。二郎が美しい飛行機を希求したように、宮崎駿は美しい映画を希求した。ユートピアに遊ぶことを自らに赦す。それは、「美しさだけを愛する残酷」を肯定することでもある。大人のためのファンタジーは、こうした残酷さを免れないもののように思える。

だから、宮崎駿の『風立ちぬ』はとても感動的で残酷な映画だった。

堀辰雄が書いた『風立ちぬ』の主人公は、その残酷さにナイーブなほど自覚的だった。ユートピアはもとより「私」の中にしかない。強く、美しく、そして果敢ないものを、それ故に愛し幸福に溺れる自分を恐れ、疑い、恥じる。サナトリウムの閉じた世界の中で、それが本当はディストピアかもしれないという恐怖や後悔と闘いながら、自ら生み出したユートピアを必死で守ろうとする。そしてついには、自分だけのユートピアに閉じこもってしまう。その姿はあまりに感傷的で、自己陶酔的だ。

「私」は作為によってユートピアを作り上げ、それを自覚しながら耽溺した。

そんな背徳的な幸福に対する恐怖や羞恥や開き直りが、宮崎駿の『風立ちぬ』からはごっそりと抜け落ちている。二郎はほとんど、アナクロな私小説的自意識から自由にみえる。彼のユートピアは彼自身の作為ではない。与えたのは世界、要するに、宮崎駿だ。堀辰雄が「私」に背負わせたものを、宮崎駿は二郎に背負わせることをしなかった。読者にとって「私」は共犯者だけれど、観客にとっての二郎はそうではない。その内面的な強度においても、彼は決して共犯者たり得ない。

宮崎駿が作品世界から丹念に排除した醜い自意識は、スクリーンのこちら側にいるぼくの上に容赦なく降り注いだ。そしてぼくは、本来そこにあるべき甘美な罪悪感を、二郎の代わりに背負わされてしまった。

そのせいでぼくは、この映画を手放しに賞賛することをずっと躊躇っている。


風立ちぬ 公式サイト

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