【ネタバレ無頓着】 映画『メッセージ』は観客に解釈を委ねているのか?

映画『メッセージ』って、色んな見方ができるよね。

そんな感想を耳にして、あれ、と思った。たしかにモヤモヤするところはあった。けれども、それほど解釈の幅がある映画だとも思わなかったからだ。残念ながら、予断がなかったとはいえない。前提として、ぼくはテッド・チャンの原作小説『あなたの人生の物語』をすでに読んでいた。その影響は、たぶん大きい。それは理解を助けもしただろうけれど、邪魔にもなっていたと思う。あの短篇をドゥニ・ヴィルヌーブはどう映像化したんだろう。そんな期待のしかたも、たぶん良くなかった。

そもそも原作小説は、「小説だから表現できること」にかなり自覚的に書かれている。「あなた」に語りかけるという形式だけをとっても、そのまま全篇モノローグの映画にするわけにはいかない。まったく別のやり方で、主人公ルイーズの内面を表現する必要がある。地球外生命体とのファーストコンタクトによって、まったく新しい世界認識の方法を身につけた言語学者ルイーズ。彼女の極めて個人的な人生観を描くうえで、母から娘に語りかける原作のやり方は実に効果的だ。そこに深い共感と鮮烈な感動が宿ってもいる。

反面、絵的なイメージや出来事そのものは大変に地味だ。とても大作映画向きとはいえない。「ヘプタポッド」と名付けられた地球外生命体はルイーズに未知の言語を獲得させるための存在にすぎず、その容姿も言語の性質に説得力を持たせるために逆算された論理的なものでしかない。しかも彼らは、意味のある情報ひとつ残さず、唐突に地球を去ってしまう。目的も不明のままだ。ルイーズの内面を除けば、結局のところ「何も起こらなかった」に等しい。SF的なガジェットといっても「ルッキング・グラス」と呼ばれる半円形のガラス板のようなものくらいしか出てこない。

一方、映画では、地表に浮く巨大宇宙船の姿が美しく絵画的(マグリットの宙に浮く岩を思い出した)に描かれ、ヘプタポッドたちはちゃんと「地球人類にとって意味のある」メッセージを残し、その結果としてルイーズは地球を紛争の危機から救うことになる。個人的には、こうした「建てつけの派手さ」は原作のユニークな衝撃を和らげてしまったように思う。

例えば、ルイーズが中国軍のシェン上将を説得するクライマックス。徐々に「未来の記憶」を手繰り寄せていくサスペンス演出は、ドラスティックな認識様式の変容とはどうしたって相性が悪い。ともすれば、ルイーズが予知能力でも手に入れたかのように見える。たしか原作には、「同時的認識様式」は記憶にしか作用しない、といった意味の説明があった。ならば、すでに認識していた「未来の記憶」の中から、必要な箇所を懸命に思い出そうするようなことも、あり得ないとはいえないだろう。それにしても、紛らわしい。

あるいは、宇宙人たちが「3000年後」の危機に言及したことも、ぼくを混乱させた。これで「未来を知る者が過去を改変しにやってくるタイプの時間SF」を想起するなという方が無茶だろう。もちろん、ヘプタポッドたちは今回の地球人類への挨拶も含めた数千年単位の時空全体を同時的に認識していて、その通り行動しているだけだと考えることは十分に可能だ。たぶん、矛盾はない。ないけれど、ターミネーター的な「因果」を連想させることは、やっぱり賢明とは思えない。

「因果」に関わるところでは、娘の死因が変更されたことも大きい。

原作ではロッククライミング中に事故死することになっていて、母娘間の他愛のないやり取りがその先の事故に繋がっていく可能性にも触れられている。それは単純化された因果関係ではなく、「すべての過程」が「あるべき全体像」に収斂されていくという認識に繋がり、ひいては、その全体像をパッケージとして無条件に受け入れ、慈しむような人生観へと昇華していく。対して、映画で採用された不治の病による死は、「逐次的認識様式」においても不可避であり、死への分岐点が「すべての過程」ではなく「子どもを作る時点」に集約されてしまう。それはドラマチックではあるけれど、やっぱり本来のテーマをわかりにくくしているのではないか。もっとはっきりいえば、自由意志による選択の問題に見えはしないか。

自由意志というのは「逐次的認識様式」でのみ意味を持つ概念で、「同時的認識様式」とは両立しない。原作ではそのことがルイーズの言葉を通して丁寧に説明されている。もちろん、映画の終盤でそんな野暮はできない。おそらくは同じ理由で、「フェルマーの原理」に関するくだりも省かれている。原作ではそれが因果律的な思考から合目的的な思考に飛躍する契機になっている。これらはラストの感動を支える重要な要素だと思う。あるいは、ぼくの理解が及んでいないだけで、ルイーズが自由意志によって哀しい未来を受け入れる「選択をした」と考えることも、必ずしも間違いではないのだろうか。

「わが子を愛する」というのは、短い脚は格好悪いからすらっと長い脚に取り替えようとか、不細工に生まれてきて可哀相だから殺してしまおうとかいうことでは、たぶん、ない。脚の長さも顔の造作も関係なく、そういう人間として愛する。この「まるごと受け入れる」という感覚は、「同時的認識様式」においては、当然、時間軸にも適用されるだろう。だから、ルイーズはその短い人生のすべてを愛し慈しむべきものとしてわが子の誕生を受け入れる。そこに「この子の人生には欠陥があるから作らない」といった選択肢は原理的に存在しない。ぼくはそういう話だったと思っている。

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